娘の不登校体験と私の気づき
娘は1歳4ヶ月から10年半海外で育ちました。突然の父親の死を経て、娘の生活の拠点は日本となり生活がガラリと変わりました。小学校6年生の2学期。多感な時期に地元の学校に編入。あと少しでインドネシアの日本人学校を卒業できるタイミングでした。
娘には申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、選択肢が日本に帰ることしかありませんでした。娘にとって日本での生活は初めてに等しく、更に輪をかけて帰国後、世の中は一気にコロナ禍に突入したのです。
娘が中学1年生の時、部活や塾でのストレス、日本の学校の校則やルールに疑問を感じるようになりました。部活では顧問や先輩から差別を受け、塾では内申点を上げるための不自然なアドバイスに辟易していました。
日本に帰国してからの学校生活は、娘にとって「逆カルチャーショック」そのものでした。
やがて娘は頻繁に体調不良を訴えるようになり、頭痛、腹痛、眩暈、不眠などの症状が続き登校渋りが続きました。大きな病院で検査を受けましたが、特に異常は見つかりませんでした。
私も働いていたため、朝は時間との戦いでした。何度起こしても起きてこず、準備が遅い娘に対して苛立ちを隠せず「早くしなさい!」と声を荒げたこともありました。
全て準備を済ませ玄関を出る間際に「やっぱり行かない」と欠席した日もありました。ある日、娘に登校したくない理由を尋ねてみると、「授業中に眠くなるから」とのこと。詳しく話を聞いてみると、以前授業中にどうしても眠くなって寝てしまい、先生にクラス全員の前で叩き起こされたことが何度かあり、それが嫌だったと。
私は先生に直接話聞き、事実確認をとりましたが、結果納得のいく対応は得られませんでした。娘が学校で辛い思いをしていることを知り「無理に登校させるのは間違っている」と感じるようになりました。
その頃、担任の先生から「スクールカウンセラーのカウンセリングを受けてみませんか?」と提案され、私自身がカウンセリングを受けることにしました。カウンセラーさんは私の話をじっくり聞いてくれ、全く泣くつもりはありませんでしたが、自然と涙が溢れてきました。
娘の問題だけではなく、突然主人が亡くなったことも関係していたのだと思います。カウンセリングを受けた後は、心が軽くなっていました。
それから、カウンセリングで得た「気づき」と、カウンセラーさんからのアドバイスを実行することで、娘は徐々に私に心を開いてくれるようになり、以前に比べ会話も増えていきました。
その後も娘の体調不良が続き、心配が拭いきれずにいたので、再度別の病院を受診した結果「起立性調節障害」と診断されました。治療方法がなかったため、頭痛薬の処方のみでした。
客観的に言うと、娘は体調不良と付き合いながら、学校生活を送ることになりました。私は娘が登校するのも、遅刻、早退をするのも、すべて本人に任せました。なぜなら、学校へ行くのは私ではなく「娘自身」だからです。
そして、担任の先生にも病気の報告と共に、娘がどうするかは本人に任せているので、本人が体調が悪いと言ったら、保健室で休むか帰らせるかさせてほしいと伝えました。しかし、中学2年生の1学期が終わろうとしていた頃、私は担任の先生の対応に不信感を覚えました。クーラーの直撃する席で腹痛を訴えた娘が、保健室で休むことを許されず「あと1時間我慢しなさい」と無理を強いられたのです。
娘は体質的に寒いのが苦手。真夏でも教室では、上下長袖のジャージを着ていました。それでも、寒いと訴えた娘に対して、先生は「そんなに寒かったら腹巻でもしてきなさい」と言いました。
その時私はこのように感じました。担任の先生は娘のことを「不登校児は甘えている」という色眼鏡で見ているのだなということ。そして、「他の生徒と足並み揃えられない娘」の対応が面倒だったのではないか?と。そうでなければ、何も我慢させる必要はないと思うのです。
この出来事が引き金となり、先生や学校への信頼を完全に失った娘は、中学2年生の1学期修了後「2学期から学校には行かない!」と不登校宣言しました。私は娘が本心を打ち明けてくれたことにホッとし、娘のありのままの気持ちを受け止めました。
幼少期から海外で育った娘は、「出る杭は打たれる」日本の教育や社会に順応できなかったのです。オーストラリアでは「個性や長所を伸ばす教育」を受けていました。みんな違ってみんないい環境です。
不登校宣言をした娘が言ったセリフを今でも忘れることができません。
「何で日本の教育は、個性を伸ばそうとしないの?それぞれ得意なものを伸ばすことに時間を費やした方が、将来にも役立つよね?お母さん、社会に出て因数分解使ったことある?ないよね?数学なんて、足し算、引き算、かけ算、わり算ができて、電卓があれば十分でしょ?科学で勉強したことが役に立ったことある?科学は科学者になる子が勉強すればいいじゃん!」
返す言葉もありませんでした。更に、教師や先輩から差別を受けたこと、校則の意味が理解できないこと、受験のための内申点など。娘には理解に苦しむことばかりでした。「私は先生の機嫌をとるために学校に行くわけじゃない。」と。
そして、最後に吐き捨てるようにこう言いました。「いまの赤ちゃんや幼稚園生の子が、中学生になる頃には、日本の教育が変わっていてほしい。私みたいに、同じような想いをしてほしくない。可哀そう。」そう言いながら、泣いていた娘を見て、胸が張り裂ける想いでした。
話し合いの結果、娘は通信制のインターハイスクールで勉強することになりました。自分のペースで学べるようになり、また興味のある分野にもチャレンジできる環境になり、娘は身心共に安定してきました。
しかし、そんなある日、娘が日本に帰ってきてから小学校の担任から受けた「公開処刑」のような辛い出来事が突然フラッシュバックしたのです。それはあまりにもショッキングな出来事でした。更に、娘が日本の小学校の出来事が全く記憶に残っていないことを知り、ダブルショックを受けました。
日本に帰国した当初の私はまったく心に余裕がなく、娘の話をしっかり聞いてあげられる状態ではなかったのです。新しく始めた仕事は残業続き、久しぶりの日本での新しい生活に大きなストレスを抱えていました。
娘は私以上に、ストレスを抱えていたに違いありません。ある日突然父を亡くし、ただでさえ慣れない環境に身を置き、そんな辛い出来事があったにも関わらず、一日も休むことなく我慢して登校していた娘のことを想うと、胸が引き裂かれる想いでいっぱいになりました。
その時、私は泣きながら話をしてくれた娘に、何度も謝り「気づいてあげられないくてごめんね。」と泣きながら娘を強く抱きしめました。
私は心理カウンセリングを受けたことがキッカケとなり、「いままでの自分の子育てに問題があったこと」に気づいたのです。それは、「娘を自分の思い通りにコントロールしていた」ということ。娘に対して「過干渉」だったということ。
それは、娘が不登校にならなかったら得られない「気づき」でした。不登校にとひとことで言っても、子供が学校に行きたくない「理由」や「意味」や「原因」はさまざまです。私は、自分がカウンセリングを受けて、心理学を学びをとおして、自分自身も変わっていきました。
怒涛の如く押し寄せた娘の感情が落ち着きを見せてきた頃、学びの中で娘がHSC (Highly Sensitive Child)気質であることに気づきました。それを知った時は、まるでジグソーパズルのピースが全て埋まったような感覚がありました。
このことを娘に伝えようか迷いましたが、思い切って伝えると「やっぱりね。」と意外な返事が返ってきました。娘は自分のことが知りたくて、SNSで調べて既に知っていたのです。
授業中にみんなの前で叩き起こされて嫌だったこと、隣の子が先生に叱られているのに、自分が叱られているように感じて辛かったこと、気圧の変化に敏感で頭痛がすること、人混みや大声のする環境にいると疲れやすいこと、音や光や肌の感覚が敏感なこと、極端にビックリすること、初対面の人と会話するのに物凄く気を遣うこと、いつも相手のことを優先して考えしまい、自分の気持ちを後回しにしてしまうことなど。
HSCの性質を理解したことで、私もありのままの娘を受け入れられるようになり、娘自身も自分を少しずつ受け入れることで、明るさを取り戻していきました。
娘は地元の中学校を無事卒業し、それからはマイペースで興味のある分野に挑戦し、新たなる未来に向かって歩み始めました。
不登校は決してネガティブなものではなく、豊かで健全な親子関係を築き、子供の個性を伸ばす絶好のチャンスだと実感しています。親子が互いに、一人の人間として信頼感をもち「横の関係」を築くことで、親子の関係は良好になります。
学校だけが人生ではありません。いまは、色々な選択肢がある時代!!「有名校を出て一流企業に就職すれば人生安泰!」みたいな考えはもう古すぎます。そこに捉われる必要なんて何もありません。世間や周りの目を気にする必要なんてありません。大切なことは、親子の信頼関係です。
不登校という「人生の課題」と正面から向き合った私は、大きく生まれ変われたのです。いまでは、娘は自立の道を歩み、私自身も自分の人生を自分らしく歩んでいます。
あなたも、不登校の悩みを解消して「有限な人生」を「自分のために自分らしく」歩んでみませんか?